祖父の三回忌へ/41才にしてフジノは運転免許を取りました

祖父の三回忌の法要へ

今日は、祖父の『三回忌』の法要に行ってきました。

親戚が集まり、お寺の境内で一緒にお経を唱えて、最後に祖父のお墓をお参りしました。

あいにくの雨でしたが、親戚が集まって祖父をお参りしました

あいにくの雨でしたが、親戚が集まって祖父をお参りしました


以前にも書いたとおりなのですが、『法要』という仕組みは日頃忙しくて会えない親戚同士が会えるとても良い仕組みだと感じました。

けれども超高齢・少子・多死社会が猛スピードで進む中で、たぶん僕自身が亡くなる頃にはこうした仕組みも残念ながらきっと廃れてしまうのだろうなとも感じました。

かれこれ十年くらい前から市民の方々からご相談を伺う中で、亡くなった直後の葬儀そのものさえ行なうことが困難な人々が増えています。

ですから、『法要』の在り方もこの数年で大きく変化していくのだと思います。



2年目だけど三回忌、について

祖父は昨年1月に亡くなり『四十九日法要』と『一周忌』を終えたばかりだと思っていたら、あっという間に1年が過ぎてしまいました。

『三回忌』というと3年が過ぎたような気がしてしまうから、よけいに早く感じたのかもしれません。

エンバーミング(おくりびと)等葬祭関係者を育成する専門学校で教壇に立っている友人と先日お会いした時に

「祖父の『三回忌』に行くのだけど、亡くなってからまだ2年しか経っていないのに何故『三回忌』と呼ぶのだろう?」

という会話をしたばかりでした。

友人は詳しく教えてくれたのですが、その内容に近い説明を『浄土宗のウェブサイト』で見つけました。

やっぱりみんな同じ疑問を持つのですね〜。

「2年目なのになぜ三回忌?」

「2年目なのになぜ三回忌?」


亡くなった日が1回目の『忌日』、丸1年目が2回目の『忌日』、丸2年目が3回目の『忌日』である、という考え方なのですね。

祖父は1月に亡くなったのですが、親戚の集まりやすさなどを考えて12月に『法要』を行ないました。2014年1月に亡くなったので、『三回忌』と言ってもまだ1年10ヶ月しか過ぎていない訳で、だからよけいに「早く感じた」のでしょうね。

ふとさみしさを覚える瞬間もありますが(僕はおじいちゃん子でしたので困ったことがあるといつも祖父に相談にのってもらっていました)、それでも大きな喪失感は感じずに日々を過ごしています。

僕の中に確かに祖父は生き続けています。

むしろ祖父の存在を生前よりも身近に感じられるので、とてもありがたいなぁと思います。



41才にして自動車免許を取りました

ところで僕にとって、今日は『大切なミッション』がありました。

それは『法要に母をクルマで送っていく』というものです。

お寺の駐車場にて

お寺の駐車場にて


半年がかりのミッションを、無事に達成することができました。

親しい友人はみな知っていることなのですが、フジノはあえて免許を取らない人生を選んできました。

そもそも実家にもクルマがありませんでしたし、高校〜大学時代の通学は雨の日でもほぼ自転車を使い続けました。

さらに、大学時代にイヴァン=イリイチ『エネルギーと公正』という本を読んだのが決定打でした。

「この自動車社会においても少なくとも自分だけはクルマを使わない人生を送ろう」と決めて生きてきました。

これはかなり固い信念でした。

社会人になって移動手段の必要性からバイクの免許は取りましたが、少なくとも自分がクルマの免許を取らないことをもって『化石燃料消費社会』に反対の姿勢を貫いてきた訳です。

その40年間続けてきた信念と生き方を変える決心をしたのは、6月に父が亡くなったからです。

母自身も病気があって、バス・電車等の公共交通機関での移動は、母にとってかなり難しくなっていました。

父が亡くなった直後の病院にも、母は向かうことができませんでした。

そうしたことから

「遺された母をもっと外出させてあげたい」

「母と一緒に過ごす時間を増やしたい」

との想いがさらに強くなりました。

いろいろ考えた結果、自動車免許を取ろう、と決めました。

当面の第1目標は、半年後の祖父の三回忌(まさに今日のことです)に母をクルマで連れていってあげたい、というものでした。

こうして、自動車学校に通い始めることにしました。

ただ、日本では20代で免許を取る人々が大半ですよね…。

認知能力も運動能力もかなり落ちた自覚のある四十代の僕が、果たしてちゃんと免許を取れるのか、心配でした。

相談にのってもらいに、3回も自動車学校へ足を運んでしまいました。

あるカフェトークの参加者の方が「親の介護の必要から、自分も四十代になって初めて免許を取った」というお話をしてくれました。それがとても僕の背中を押してくれました。

7月、自動車学校に入校しました

7月、自動車学校に入校しました


こうして父の葬儀が一段落ついた7月あたまに、ついに入校しました。

けれども仕事が忙しくて全く通えず、8月になってから週2〜3回のペースで久里浜に通いました。

7月31日には「教習診断」を受けました

7月31日には「教習診断」を受けました


政治家としてフルで仕事をしながら空き時間を作って、同時に教習所の予約が取れる空きタイミングを合致させるのは毎回すごく大変でした。

技能学科Ⅰ

技能学科Ⅰ


教習所では、僕が政治家フジノだと気づいてじかに話しかけてきた先生はおひとりだけで、あとの方々はみな僕がナイショにしているのを気遣ってくれたようでした。

教習所の先生方はみなさんが本当に丁寧で分かりやすい教え方で、ここでは自分が気に入った先生を『指名』できるシステムがあるのですが、僕は最後まで使いませんでした(使う必要が無かった)。

僕と同じように、四十代になってから免許を取ろうという人がこのブログを読んでいる方の中にもいるかもしれません。

ぜひチャレンジなさってください。僕は強くオススメいたします。

ほとんどの生徒たちが十代の中、僕が肩身の狭い想いをしているのを気遣って下さるのか、これから乗車する時や修了試験に向かう僕に「リラックスだよ!」と声をかけて下さる先生もおられました。

特にお二人の先生には、本当にいつもいつも廊下ですれ違う時などに励ましの声をかけていただきました。おかげで僕はすごく心強く感じたものです。

教習所の先生方も、僕らの世代が改めて新しいことにゼロからチャレンジすることをとても優しく見守って下さっているのを感じました。

だから、かつての僕のように免許取得を迷っておられる方がいらしたら、ぜひ挑戦してほしいと僕は願っています。

9月下旬、第1段階の修了検定に初挑戦

9月下旬、第1段階の修了検定に初挑戦


さて、現在クルマの免許を取ろうとすると、第1段階は学校内での模擬コースで教習、第2段階は実際の路上に出ての教習、という仕組みになっています。

入学から卒業までの流れ

入学から卒業までの流れ


僕は、教習はスムーズに進んでいったのですが...

第1段階の修了検定では、緊張の激しさからか教習では1度もしたことが無い『脱輪』というミスをしてしまいました。

いろいろなミスをしても修了試験は減点が多くならなければ合格できるのですが、『脱輪』というミスの場合はそこで即終了となります。

S字カーブとか

S字カーブ

S字カーブ


クランクとか

クランク

クランク


みんなが失敗する難しい課題で失敗するのではなく、ふつうの穏やかなカーブでの『脱輪』は信じられないミスでした。

教科書を読みなおしてみたり、コースを一望できるラウンジからイメージトレーニングをしてみたり努力をしたのですが、うまくいきません。

2回目の修了試験も別のカーブで『脱輪』をして、あっけなく落第してしまいました。

信じられない結果にさすがに先生にも相談に乗ってもらい、「ふだんの運転はしっかりしているのだから原因は『緊張』だろう」という結論になりました。

不合格になると、『補講』としてひとコマ教習を受けねばなりません。『補講』も『再受験』も追加で料金がかかります。

さらに修了検定の実施日が週2日しか無い為、補講を終えてもなかなか再受験の日が仕事と重なって受験ができなくてとても焦りました。

緊張をコントロールできない為に、お金も時間も奪われていくことに自分に強い怒りを感じたりもしました。

今振り返ると、この時期が僕にとって最大のピンチでした。

ようやく3回目の修了試験で無事に合格することができました。

3回目でようやく仮免許を取ることができました

3回目でようやく仮免許を取ることができました


本当に嬉しかったです。

仮免許が発行されて大喜びのフジノ

仮免許が発行されて大喜びのフジノ


けれども、再び大ピンチがやってきました。

『ぎっくり腰』です。

第2段階に入って路上を走りだした僕は、順調に進んでいました。

しかし、決算審査をしていた9月議会の最後半のある日、なんとぎっくり腰になってしまいました。

すぐにある整骨院に行ったのですが、全く効きませんでした。むしろ施術で骨をバキバキやられて、余計に具合いが悪くなってしまいました。

翌日の委員会には意地で出席したのですが、お昼になる頃にはあまりの体調の悪さに朦朧としてしまい、午後の委員会を早退せざるをえませんでした。

13年の議員生活の中で、初めての早退でした。

早退そのものにもひどく落ち込みましたが、「もう教習にも通えない...」とひどく落胆しました。

けれども、捨てる神あれば拾う神あり、ですね。

先輩議員が素晴らしい整骨院を紹介して下さって、そちらに通院先を変えたらわずか1度の施術でひどかった痛みが少し消えたのです。

そこに毎日通院することで痛みが確実に和らいでいきました。

名医に出会えたおかげで、議会にも半日で復帰できて、運転の勘所も忘れないまま教習にも復帰することができました。

そして、第2段階ではひとコマも落第せずに、卒業検定を迎えました。

ぎっくり腰に苦しみながらも卒業検定を受けました

ぎっくり腰に苦しみながらも卒業検定を受けました


さらに、卒業検定も一発で合格することができました。

卒業式の後、初心者マークを頂きました

卒業式の後、初心者マークを頂きました


こうして、卒業後は二俣川にある神奈川県警察本部交通部運転免許本部へ行って、免許証を発行してもらいました。

二俣川に免許証を交付してもらいにいきました

二俣川に免許証を交付してもらいにいきました

それから今日に至るまで4回レンタカーをして、毎回少しずつ走る距離を増やしていきました。

初回は市内一周、

市内の子安

市内の子安


2回目はお隣の三浦市へ、

京急油壺マリンパークのふくろう

京急油壺マリンパークのふくろう


3回目は藤沢市へ、

夕焼けと江ノ島

夕焼けと江ノ島


4回目は平塚市へ走る練習をしました。

平塚八幡宮

平塚八幡宮


そして今日の本番は、横須賀から平塚にある祖父の菩提寺まで無事に往復することができました。

半年間を費やしての目標達成は、率直にうれしかったし、ホッとしました。

できればこれからは、母を1泊くらいの小さなドライブに連れていってあげられたらいいなあと願っています。

父が警察官として働いていた間、僕もどこか旅行に連れていってもらったことはありませんでした。

だから、父が定年退職したら、いろいろなところに旅行なんてできたらいいね、と両親が話すのを聴いていたものです。

それなのに父は、退職後わずか5年も経たずに倒れてしまいました。父はさぞかし無念だったろうと思います。

母も言葉にはしませんが、とてもさみしい気持ちになることがあるのではないかと思うのです。

大切な人を喪うという気持ちは僕自身が体験していますから、誰かが代わりになることは不可能です。それでもこれからは僕が少しでも父のかわりに、母をどこかに連れていってあげられたらいいなぁと思うのです。

その為にはもっと運転をうまくならなければ。もちろん無事故・無違反を継続しなければ。

がんばります。



次の4年間で実現させる政策「ずっと取り組んできた『地域包括ケア』をもっと加速させます」を演説しました/横須賀市議会議員選挙(6日目・その3)

フジノは誰よりも早く「地域包括ケア」導入を訴え、推進してきました

フジノは横須賀市議会で誰よりも早く『地域包括ケア』の実現を訴えてきました。

横須賀市議会・会議録より

横須賀市議会・会議録より


今では誰もが口を開けば「地域包括ケアが必要だ」とおっしゃいます。

でも、本当にその中身を分かっておられるのでしょうか?

一方、フジノはすでに2009年には、『24時間対応型の訪問介護・訪問看護サービス』の導入をすでに訴えていました。

ずーっと前から一貫して、ご高齢の方の保健・医療・介護・福祉を連携・統合させる取り組みの重要性を訴えてきたのです。

国の審議会にも県の審議会にも立ち会ってきました。

新しい法律、全国各地の取り組み、ぜんぶ調べてきました。

フジノ自身も、『2012年度・地域連携コーディネーター講座』の修了証も頂いています。

地域包括ケアとは何か。

24時間対応型のサービスとはどんなものか。

これまでもブログで何度も書いてきました。

横須賀市の『地域包括ケア』の取り組みは全国から視察に来るほど、良い取り組みです。

これを市議会で『エンジン役』となって進めてきたのは、フジノです。

『在宅療養連携会議』という、行政が事務局をつとめて、医師会をはじめ多職種のみなさまがメンバーのネットワーク会議も、毎回傍聴しているのはフジノしかいません。

(*介護保険に関する『介護保険運営協議会』、高齢福祉に関する『社会福祉審議会福祉専門分科会』を毎回必ず傍聴している市議会議員もフジノだけです)

流行だから『地域包括ケア』を口にする人ばかりの今ですが、何年も何年も前から他の誰にもできない仕事をフジノはずっと地道に続けてきました。

当然、今回も「ずっと取り組んできた『地域包括ケア』を加速させます」という選挙公約をフジノは掲げています。

その公約を街頭演説でお話いたしました。




日本全国の地域包括ケアのリーダーとも、フジノは深い関わりを持っています。

高齢化率の上昇が早い横須賀は、もっともっと『地域包括ケア』を加速させねばなりません。

選挙カーを絶対に使わないフジノは「徒歩」「電車」で移動します

選挙カーを絶対に使わないフジノは「徒歩」「電車」で移動します


フジノは次の4年間、さらに全身全霊をかけて『地域包括ケア』を加速させていきます!



フジノブログにはあらゆる情報がもりだくさんなので、ぜひ検索してみてくださいね。



ようやく「進退」について結論を出しました/ラスト20日間、準備は間に合わないかもしれないけれど「生身の自分」だけで市民のみなさまと向き合いたいです

ようやく今後の進退について「結論」を出しました

ずっと、悩み続けてきました。

父の病院まで向かう道のりから見える風景

父の病院まで向かう道のりから見える風景


誰よりも信頼してきた祖父と5日前に語りあい、今日は父と語り合ってきました。

植物状態で入院中の父と。昨年からずっと危篤状態が続いていて、この1週間もとても危険な状態なのです(涙)

植物状態で入院中の父と。昨年からずっと危篤状態が続いていて、この1週間もとても危険な状態なのです(涙)


そして、1つの結論に至りました。



ひとことではお伝えできないので、20分ほどそのままの気持ちをお伝えしました

父の病院を出たところで、そのままの想いをツイキャスで生中継して市民のみなさまにお伝えしました。

その録画をこちらにも掲載いたします。

相変わらずフジノの言葉はたどたどしく、政治家の言葉としては下手くそです。けれども、今の生の想いを語りました。

よろしければご覧下さい。




フジノの決意が定まらなかった為に長い間ご心配をおかけしたみなさまには、こころからお詫びを申し上げます。

けれども、悩み続ける期間が必要でした。

そして、ずっと本気で悩みぬいた末に最終的に出した結論なのでもはや絶対に逃げません。

この沈みかかった横須賀という船に乗っている人々を、フジノはどんなことがあっても最後まで守り抜きます。



大切な祖父母のお墓参りへ行ってきました/12年間の政治家としての仕事を報告し、今後について相談してきました

予想外に早く終わった本会議、今日だけは「ラッキー」と感じました

今日は、市議会本会議が予想よりも1時間も早く終わりました!

「市議会での議論はしっかり成されるべきだ」と考えているので、早く終わるとフジノは普段ならばいつもガッカリします。

でも、今日の僕にとっては『予想よりも1時間早く終わったことによる、プラス1時間の空き時間』は本当にありがたかったです。

実は、祖母のお墓参りをしたかったのです。

そこで、祖父母が眠るお墓のある平塚へ急いで向かうことにしました。

パニック発作に苦しみながら、何とか平塚に来ることができました

パニック発作に苦しみながら、何とか平塚に来ることができました


途中、パニック発作が出て(JRが特にニガテなのです)大船駅で30分も休まざるをえなかったのですが、何とかたどりつくことができました。



忙しくて祖母の命日のお墓参りに行けなかったかわりに今日、来れました

あまのじゃくな僕は、毎年、祖母の命日の前日にお墓参りをすることにしています。

昔から僕は「ひとりきりでおばあちゃんと向き合いたい」という気持ちが強くて、命日そのものを避けてきました(当日に行けば親戚に会ってしまいます)。

命日より後に行くと、お彼岸とぶつかるのでお寺も混雑してしまいます。

そんな訳で、大学生くらいからずっと3月14日にお墓参りをしてきました。

行けなかったのは、東日本大震災が起こった4年前だけです。

そして今年も3月14日はあまりにも仕事が忙しくて、来られませんでした。

さらに今日を逃せば、もはや4月なかば(井坂しんや議員の選挙が終わる頃)まで、時間が全く取れる日がありませんでした。

だから、どうしても今日、来たかったのです。だから予想よりも1時間早く議会が終わって嬉しく感じたのです。

数年前から若い和尚様に代わり、ますます地域に開かれたお寺になりました

数年前から若い和尚様に代わり、ますます地域に開かれたお寺になりました


ふつうのお寺ならば17時頃に閉門してしまい、お墓参りができません。

フジノが到着したのはもう18時頃だったのですが、事前に電話で和尚様に確認しておいたので大丈夫でした。

「うちはいつでも開門していますから。何時でもお墓参りにいらして下さいね」

この若い和尚様とお話するのが僕は大好きで、法事でお会いするたびについつい質問攻めにしてしまいます。

(あ、今書いていて気づいたのだけれど、フジノが雫亜希選手と相性があうと感じる理由が分かった。フジノが『僧侶』という職業に就いている方をリスペクトしていて大好きだからなのだ。そうか、今、分かった)



12年間の政治家としての仕事を報告しました

そして、祖母の命日のお参りをしました。

僕は、祖父母のお墓でも亡くなった元恋人のお墓でも、ぶつぶつと話しかけて、ひとりで何時間でも過ごせてしまいます(だから他の誰かとお墓で会いたくないのでしょうね)。

今日も祖父と祖母の眠るお墓で手をあわせながら長い時間を過ごしました。

50代と若くして亡くなった祖母は、幼稚園に入る前の僕にとって、わずかしか思い出がありません。

けれども昨年1月に祖父が亡くなったので、ようやく天国で夫婦が一緒に過ごせているのだろうなあと思います。

祖父が亡くなったのは100才目前でしたから、

「50年間も離れていたおじいちゃんとおばあちゃんは今、どんな会話をしているの?」

とか、

「藤野家はみんな何とか元気でやっているよ」

とか、

「甥っこは高校に無事に合格したよ」

とか、延々と我が家の報告をしました。

そして、12年間の政治家としての仕事が今日無事に終わったことを報告しました(実際には本会議が終わっただけで任期はまだ1ヶ月以上残っているのですけれど)。

おじいちゃんが亡くなったことを僕はまだリアリティを持って感じることができずにいます。

というか、ふだん生活をしていると、あらゆる機会に僕は祖父がいつも僕のそばに居てくれるような気さえしています。

そうすると「お墓って一体何なのだろう」と改めて不思議に感じました(また若い和尚様に尋ねてみよう)。

祖母・祖父の眠るお墓に12年間の仕事を報告しました

祖母・祖父の眠るお墓に12年間の仕事を報告しました


97才で亡くなる数日前まで、祖父は意識もはっきりしていていつも聡明な人でした。

僕にとって誰よりもおじいちゃんが信頼できる存在だったので、政治家に転職してからは、祖父に会うたびにいつも政治家としての仕事ぶりや働きぶりを報告してきました。時には電話もかけて、いろいろな悩みごとも率直に話してきました。

祖父は、僕に何かアドバイスをする訳でも論評をする訳でも無く、ただ僕が語りかけることにただ耳を傾けてくれました。

そんな祖父に「僕はまた明日からも政治家としてがんばっていこう」と元気と希望をもらって帰ったのでした。

今日は、祖父にもう1つ聴きたいことがありました。

「次の選挙に立候補すべきかどうかを悩んでいるけれども、どうしたら良いのだろう?」

という悩みの答えです。

こうして祖父と祖母の墓前に足を運んでみて、たくさん祖父と祖母に話を聴いてもらって、なんとなくその悩みへの答えも見えた気がしました。

亡くなった後も、祖父母は(特に祖父は)大きな存在であり続けていることを感じました。



あなたにとって来年が良い年になりますように祈っています/父のお見舞いへ

夕方を過ぎてからようやく父のお見舞いに行くことができました

今日は朝からずっと仕事が忙しくて、自分の時間がとれたのは夕方になってからでした。

大晦日は毎年、父のお見舞いに行くことにしています。

すでにみなさんがご存知のとおりで、僕の父は脳出血によって植物状態になってしまいました。かれこれ11年目になります。

大晦日の病院はガランとしていて静かです

大晦日の病院はガランとしていて静かです


父は大晦日まで生き延びることができたのは奇跡だと感じます。

今年だけで合計5回、危篤を言い渡されました。

朝早くや深夜を問わず、「今夜がやまです」「もってあと数時間です」「危篤です」「ご家族の方、いらしてください」という病院からのコール。

そのたび、フジノはパニック障がいに悩まされながら、父の入院している病院に向かいました。

泊まりこみでベットサイドに座り、生と死の間を行ったり来たりする父の姿を見つめ続けました。

拘縮で固まってしまい、カサカサになってしまった父さんの手

拘縮で固まってしまい、カサカサになってしまった父さんの手


12月に入ってからも父の状態の悪さは変わりません。

12月27日には39度の発熱、今日31日も37度から下がりません。

元気な頃の父の平熱は35度なので、そうとう苦しい状態なのだろうなと切なく感じます。

でも、「生きよう」とし続けている父の意思を僕はこころから尊重したいと思います。

お見舞いから戻ったら『ひとり自殺対策街頭キャンペーン』に向かう。

これが毎年のスケジュールです。

けれども横須賀に戻った時点で、すでに21時を過ぎていて、今年は叶いませんでした。

明日、1月1日はいつもどおり街頭に立ちます。



こころからみなさまの幸せを祈っています

本当ならばご自身もこどもたちとゆっくりとお正月を迎えたいであろう、警察、消防、救急、自衛隊、医療福祉関係のみなさん、サービス業のみなさま。

本日もお仕事、本当におつかれさまです。

あなたがたの働きのおかげで、世の中の多くの人たちが安心して暮らせています。政治家として、こころから感謝しています。

フジノ自身は今年は苦しいことがとにかく多かったです。

1月には、大好きな祖父が亡くなりました。

そこから立て続けに大変なことばかりが続きました。

8月には、15年ぶりくらいに僕の精神疾患も重くなってしまい、いつ自殺してもおかしくない日々が続きました(わが主治医の治療はすごい。4ヶ月後の今、なんとかフジノは生きていますからね〜)。

それだけに、人の優しさが深くこころに染み入る1年でもありました。

たくさんの出会い、細やかな優しさ、温かい気遣い。

感謝してもしきれません。

フジノが2014年を生き延びることができたのは、友達や先輩のおかげです。本当にありがとうございます。

そんなつらい日々にあっても、今回フジノは自分の病状の深刻さを世間に対してお伝えしなかったので(伝える余裕も無かった)、市民のみなさまからはどんどん相談や仕事の依頼が押し寄せました。

政治家フジノを信じて助けを求めて下さるこんなにもたくさんの方々がいらっしゃる以上、一刻も早く元気になって仕事しまくらなければ。

その想いがリカバリーへの後押しになりました。

フジノをこきつかい続けて下さる市民のみなさまにも、こころから感謝しております。

そして、その感謝の気持ちはたくさんの政策の実現でお返ししてきたつもりです。

今年もフジノの提案がたくさん実現しました。

フジノは自信をもって自ら「僕は今年も政治家としてかなり良い仕事をしてきました」と自負できるのも、いつもフジノを信頼して下さる市民のみなさまのおかげです。

その信頼に対して、フジノはいつも全力で働いて成果を出すことで、お返しをしてきました。

これからも常にその信頼に対して、成果をもってお応えしていく政治家でありたいと想っています。

フジノにとって年末年始もふだんと変わりませんし、明日も今日と変わらずいつもどおり全力で働くだけです。

でも、暦としてはひとまず「新年」になるので、人々の気持ちが新たに幸せに満ちた年になることを祈っています。

どうか、あなたの2015年が少しでも喜びと幸せの多い1年となることを願っています。

その為にフジノは、政治家として、個人として、全身全霊を尽くして働いていきます。

みなさま、どうぞ良いお年を!



祖父の四十九日法要へ

四十九日法要へ

今日は、1月に亡くなった祖父の四十九日法要でした。

四十九日についてインターネットで検索してみると

中陰。仏教で人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。

とありました。

そういう意味があったのですね〜。

お寺へ

お寺へ


親戚一同が1ヶ月ぶりに集まりました。

お寺の本堂で、みんなでお経を唱えました。大きな声で読経するのは、気持ちいいものです。

お墓に出ると、とても天気が良かったです。

そして、これまで祖母の遺骨だけがおさめられていた屍櫃に、祖父の骨壷が置かれました。

祖母は僕が幼稚園の時に亡くなってしまったので、三十数年ぶりに祖父は祖母と再会を果たせたことになります。

おじいちゃんはおばあちゃんに会いたがっていたので、本当に良かったなぁと思います。

納骨が終わると、みんなでお昼ごはんを食べました。

フジノは『予算議会』のまっただ中なので中座して先に帰らねばならなかったのですが、ふだんなかなか会えない親戚に、こうして法事でお会いできるのはとてもありがたいなぁと感じます。

『宗教行事』というものは、家族や親戚を結びつける為に先人が生み出した大切な『装置』だと思います。

おじいちゃん、おばあちゃんと末永く幸せに暮らしてね!



「みんなで支える在宅療養シンポジウム」へのお誘い

在宅療養シンポジウムへどうかいらして下さい

この数年間、政治家としてフジノは『看取りケア』『看取り支援』の推進に取り組んできました。

『看取り』に熱心に取り組んでこられた特別養護老人ホームや有料老人ホームの職員の方々をはじめ、たくさんのご家族の方々のお話を伺ってきました。

尊厳のある生き方=死に方について、いつも考え続けてきました。

また、個人としては祖父とも生きることと死ぬことについてたくさん語り合ってきました。

そのおかげで、こころの準備もずいぶんできていたのだと思います。

先日もブログに書いたばかりですが、『生きること』と『死ぬこと』について考えることは本当に大切だと感じています。

ぜひこどもから大人までみんなに機会をとらえて語り合ってほしい、と強くフジノは願っています。

そこで、あなたにぜひ来てほしいシンポジウムがあります。

在宅療養シンポジウムのチラシより

在宅療養シンポジウムのチラシより


横須賀市による『みんなで支える在宅療養シンポジウム』です。

テーマ:最期まで住み慣れた場所で~在宅看取りを叶えるために~

プログラム:

  1. 基調講演
    『人まかせの終末期医療でいいんですか?』

    • 講師:NPO法人高齢社会をよくする女性の会・理事長 樋口恵子氏
  2. 横須賀市からの報告
    『在宅療養・在宅看取りを選択できるまちづくりへ向けて』
  3. パネルディスカッション
    『在宅看取りを叶えるために』

    • コーディネーター
      神奈川県立保健福祉大学教授 加納佳代子氏
    • パネリスト
      横須賀市医師会副会長 千場純氏
      田浦・逸見地域包括支援センター施設長 大澤愛子氏
      朝日新聞横浜総局記者 佐藤陽氏
    • 報告者
      横須賀市健康部地域医療推進課長 惣田晃
    • コメンテーター
      樋口恵子氏

日時:1月13日(月)13:00~16:15(開場12:30)

会場:ヨコスカ・ベイサイド・ポケット(横須賀芸術劇場小ホール)

定員:当日先着500名(事前申し込みは必要ありません)

その他:入場無料、手話通訳つき

横須賀市の取り組みは、『医療と福祉の連携』という観点で専門家の方々からは全国的に注目されています。

この年末には、横須賀の在宅療養が朝日新聞の特集記事としてシリーズで報じられました。

2013年12月21日・朝日新聞・特集記事の反響編より抜粋

2013年12月21日・朝日新聞・特集記事の反響編より抜粋


でも、まだまだそれは専門家やマスメディアなどの関心が高い方々に限られているとフジノは感じています。

僕は、市民のみなさまひとりひとりが生きることと死ぬことを語り合えるまちに変えていきたいと願っています。

今、多死社会に突入しています。

『死』は遠いものではなく、目の前で起こる、もっと身近な出来事になります。

あなたのご家族や、あなた自身の『死』に際して、みんなが悲しみだけでなく笑顔でいられるようになってほしいと僕は願っています。

そうした取り組みのひとつがこのシンポジウムです。

どうかぜひみなさまに参加してほしいです。お待ちしております!

2014年1月8日・朝日新聞より

2014年1月8日・朝日新聞より


祖父とのお別れ

祖父とのお別れ

お通夜に続いて、今日は祖父とのお別れの1日でした。

葬儀、告別式、出棺、火葬、骨上げ、繰り上げ初七日、精進落とし、と夕方まで続きました。

遺影は十年くらい前の写真で、僕には強い違和感...。直近の祖父の方がもっと男前なのに。

遺影は十年くらい前の写真で、僕には強い違和感…。直近の祖父の方がもっと男前なのに。


祖父のお骨は、とてもしっかりしていました。

ああ、長生きした祖父のお骨は立派だなあ、と思いました。

戒名も生前の祖父をとてもよく表していて、「ぴったりだね」「いいね」と親戚もみんな気に入ったようでした。



人は死んでも終わりじゃないとつくづく感じる

今日のこのブログのタイトルは『祖父とのお別れ』と書きました。

でも、『お別れ』どころか、むしろ祖父の存在をより身近に僕は感じています。

斎場からの帰り道、夕暮れ

斎場からの帰り道、夕暮れ


確かに、物理的には肉体は消えてなくなりました。

でも、祖父の写真も動画も僕はたくさん撮ってあるので、声を聴きたければいつでも聴くことができるし、顔を見たければいつでも見ることができます。

「祖父の戦争の体験を途絶えさせてはいけない」と思った高校生の頃から、機会をとらえて祖父のお話をたくさん録音・撮影させてもらっていました。

だからiPhoneでデータを呼び出せば、僕はすぐに祖父と再会することができます。

それ以前に、目を閉じれば、すぐに祖父の優しい顔が浮かびます。

亡くなる直前までユーモアをもって僕に接してくれた、祖父の声が聴こえてきます。

「人は死んでも終わりじゃない」

と、つくづく感じます。

祖父は僕の中に生きているのだと思いました。



雪の降るお通夜でした

祖父のお通夜へ

今日は、祖父のお通夜でした。

おじいちゃんと最後のツーショット

おじいちゃんと最後のツーショット


今日はパニック発作がひどくて京急でもJRでも何度も途中駅で下車を繰り返してしまいました。

斎場までたどりつけないかと焦りましたが、なんとか到着することができました。

祖父は絵を描くのが趣味でした

祖父は絵を描くのが趣味でした


祖父は、水彩画と切り絵が趣味でした。

幼い頃から祖父宅を訪れるたびに僕は作品をもらって、自宅にも事務所にも何枚も飾ってあります。

お通夜では、斎場の入り口にその作品を飾ってもらいました。今年の干支である馬の水彩画もあります。

馬

馬の水彩画


今夜はたくさんの方々が参列して下さったのですが、ほとんどの方に涙はありませんでした。

僕も最後まで笑顔でお通夜を終えました。

祭壇

祭壇


96才での老衰による穏やかな死ということもあって、通夜振る舞いの食事をとりながら、祖父の思い出をみんなで語り合いました。

30年ぶりに再会した親戚のおばあちゃんに近況報告をしたり、ふだんは全く接点の無かった遠い親戚のみんなが祖父のおかげで交流を深めることができました。

外に出ると雪が降っていました

外に出ると雪が降っていました


ふと、カーテンを開けて外を見ると、雪が降っていました。

雪の降るお通夜。

歩きながら体はとても寒かったのですが、気持ちはポカポカしながら帰りました。

おじいちゃん、ありがとう!

祖父の死に際して

祖父が亡くなりました

けさ4時過ぎに、入院先で祖父が亡くなりました。

12月6日に誤嚥性肺炎が理由で入院はしたものの、肺炎そのものの治療は数日で終わっていました。

その後は少しずつ少しずつ衰弱していって、亡くなりました。

96才。立派な『老衰死』でした。

「老衰」の定義

  • 早急に生命を脅かすような疾患を持っていない
  • 75才以上の後期高齢者、多くは85才以上の超高齢者で
  • 食欲低下、または嚥下(飲み干す)機能の低下によって
  • 経口摂取が減退または困難となり
  • 体重が減少し
  • 動く能力(可動性)、身体活動が低下した
  • 高度な虚弱状態

(『新・私が決める尊厳死〜「不治かつ末期」の具体的提案〜』一般社団法人日本尊厳死協会編、中日新聞社、2013年より)



これが『老衰』の定義なのですが、今の時代、健康な人でなければ『老衰死』をすることはできません。

祖父はまさに健康そのもので、今回入院するまで20年以上にわたって病院そのものにかかったことがありませんでした。

祖父は身を持って僕にたくさんのことを教えてくれました。

孫としてだけでなく、政治家として、2025年に向けて『看取り難民』を生まない為に、地域包括ケアの実現、看取り支援・看取りケアの重要性を強く訴えているフジノは、祖父からは学ぶことばかりでした。

とても立派な最期の日々を僕に見せてくれました。

笑顔の祖父と

笑顔の祖父と

後悔は、何もありません。

おじいちゃん子だった僕は、自分のできることは全てしようと決めて、努力しました。

パニック障がいによって電車での移動ができない僕ですが、祖父が入院した12月6日からは全ての気力を振り絞って、ほぼ毎日お見舞いに向かいました。

毎日パニック発作に苦しみ、時には電車内や駅ホームで倒れたりしながらも、これだけ毎日のように平塚への往復を果たせたのは、やはり祖父のことが大好きだったから執念だったのだと思います。

ベットでは1日中眠っている祖父も、病室にお見舞いに来た僕の声に目を覚ましてくれたり、手を握ると力強く握り返してくれたり、僕の想いにとても応えてくれました。

幼い頃から祖父はいつも別れ際に強い握力で握手をしてくれたのですが、入院中もギュッと握手してくれました

幼い頃から祖父はいつも別れ際に強い握力で握手をしてくれたのですが、入院中もギュッと握手してくれました


亡くなるその瞬間が近づいているその時さえも、祖父は僕に愛情を注いでくれたことを感じます。

僕は、年末年始はひたすら『祖父のお見舞い』と『ひとり自殺対策街頭キャンペーン』の毎日でしたので、いつもよりもさらに『死ぬこと』と『生きること』を意識しながら過ごしました。

僕にとって祖父は、いつもこころの支えでした。

だから「祖父が亡くなった後の世界を生きる自分」をリアルにイメージして、祖父の想いを自分のこころに灯してこれからも強く生きていかなければと感じてきました。

ひ孫を祖父に抱かせてあげることができなかったのですが、いのちをつないでいかれるようにもなりたいと強く感じています。

病棟から見える夕陽

病棟から見える夕陽


僕の39年間の人生を通じて、祖父とは、あらゆることを語りあってきました。

語り尽くした、とは言えないけれど、ほとんどは語りあうことができました。

亡くなった今も祖父はいつも僕のそばに居てくれるような気がしてはいるのですが、これからは言葉による対話ができなくなることで時にはとてもさみしく感じるのかもしれません。

けれども、やがて僕が亡くなる順番もやってくるのですから、その時は祖父と再会を果たしてまたいろいろ語り合えたらと願っています。



救急搬送されて入院した祖父のお見舞いへ/人生を生きることと死にゆくということ

体調不良で苦しんでいた祖父の容態が好転しないので、深夜になって救急車を呼ぶことになりました。

市内の病院に搬送されて、CTスキャンなどの検査を受けた後、肺炎と診断されました。

酸素を吸入する祖父

酸素を吸入する祖父


96才の現在までずっと医者いらずで暮らしてきて、外部から介護サービスを受けることも無い、自立した生活を続けてきた祖父です。

さすが大正生まれで、戦争にも行ってきたおじいちゃんらしい、立派な生きざまだと思います。

おじいちゃん子である僕は、祖父とたくさんの会話をしてきました。政治家として『看取り』についても取り組んでいることから、祖父の『死生観』についてもいろいろ対話をしてきました。

「救急車も呼ばないでほしいし、亡くなるその瞬間まで自宅で暮らしたい」

これが一貫した祖父の意思でした。

そうした想いを大切にして叶えてあげたい、というのが孫であり、おじいちゃん子である僕の願いです。

おじいちゃんと僕

おじいちゃんと僕


ただ、孫である僕の意思の前に、祖父の実のこどもたちである叔父らきょうだいの迷いや葛藤やその結果としての意思決定プロセスも、大切にしたいと願ってきました。

こうして昨夜については、救急車をお願いして、そして入院という結果に落ち着きました。

病棟から見えた湘南平に沈む夕陽

病棟から見えた湘南平に沈む夕陽


入院先に向かう為に、僕はパニック発作に襲われながらもとにかく電車に乗って、その間いろいろなことを思い出してみました。

祖父と僕は、僕が幼い頃から本当にたくさんのことを語り合ってきました。

中学、高校、大学、そして社会人になってから、さらには政治家に転職してからも、僕にとって祖父は大切な存在で在り続けました。

家族には言えないことも、祖父に相談にのってもらうこともたくさんありました。

祖父は、決して言葉を多く語る人ではありません。

でも、僕にとってはたくさんの言葉よりも、その生きざまそのものと時々の対話を通じて『人生』について本当に多くのことを学んできました。

ここ数年は、人生を生きるということと死にゆくということについて、祖父と語り合ってきました。

駅ビルの上にかかった月

駅ビルの上にかかった月


僕は、おじいちゃんを退院させてあげたい。

そして、亡くなるならば祖父の望みのとおり、数十年間にわたって暮らし続けてきた自宅でその瞬間を迎えさせてあげたい。

だから、少しだけ元気を取り戻してほしい。

仕事は朝から晩まで詰まっているけれど、できるかぎり僕はたくさんお見舞いに行くから、おじいちゃん、あと少しだけ元気を出してね。