祖父の三回忌の法要へ
今日は、祖父の『三回忌』の法要に行ってきました。
親戚が集まり、お寺の境内で一緒にお経を唱えて、最後に祖父のお墓をお参りしました。
以前にも書いたとおりなのですが、『法要』という仕組みは日頃忙しくて会えない親戚同士が会えるとても良い仕組みだと感じました。
けれども超高齢・少子・多死社会が猛スピードで進む中で、たぶん僕自身が亡くなる頃にはこうした仕組みも残念ながらきっと廃れてしまうのだろうなとも感じました。
かれこれ十年くらい前から市民の方々からご相談を伺う中で、亡くなった直後の葬儀そのものさえ行なうことが困難な人々が増えています。
ですから、『法要』の在り方もこの数年で大きく変化していくのだと思います。
2年目だけど三回忌、について
祖父は昨年1月に亡くなり、『四十九日法要』と『一周忌』を終えたばかりだと思っていたら、あっという間に1年が過ぎてしまいました。
『三回忌』というと3年が過ぎたような気がしてしまうから、よけいに早く感じたのかもしれません。
エンバーミング(おくりびと)等葬祭関係者を育成する専門学校で教壇に立っている友人と先日お会いした時に
「祖父の『三回忌』に行くのだけど、亡くなってからまだ2年しか経っていないのに何故『三回忌』と呼ぶのだろう?」
という会話をしたばかりでした。
友人は詳しく教えてくれたのですが、その内容に近い説明を『浄土宗のウェブサイト』で見つけました。
やっぱりみんな同じ疑問を持つのですね〜。
亡くなった日が1回目の『忌日』、丸1年目が2回目の『忌日』、丸2年目が3回目の『忌日』である、という考え方なのですね。
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祖父は1月に亡くなったのですが、親戚の集まりやすさなどを考えて12月に『法要』を行ないました。2014年1月に亡くなったので、『三回忌』と言ってもまだ1年10ヶ月しか過ぎていない訳で、だからよけいに「早く感じた」のでしょうね。
ふとさみしさを覚える瞬間もありますが(僕はおじいちゃん子でしたので困ったことがあるといつも祖父に相談にのってもらっていました)、それでも大きな喪失感は感じずに日々を過ごしています。
僕の中に確かに祖父は生き続けています。
むしろ祖父の存在を生前よりも身近に感じられるので、とてもありがたいなぁと思います。
41才にして自動車免許を取りました
ところで僕にとって、今日は『大切なミッション』がありました。
それは『法要に母をクルマで送っていく』というものです。
半年がかりのミッションを、無事に達成することができました。
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親しい友人はみな知っていることなのですが、フジノはあえて免許を取らない人生を選んできました。
そもそも実家にもクルマがありませんでしたし、高校〜大学時代の通学は雨の日でもほぼ自転車を使い続けました。
さらに、大学時代にイヴァン=イリイチの『エネルギーと公正』という本を読んだのが決定打でした。
「この自動車社会においても少なくとも自分だけはクルマを使わない人生を送ろう」と決めて生きてきました。
これはかなり固い信念でした。
社会人になって移動手段の必要性からバイクの免許は取りましたが、少なくとも自分がクルマの免許を取らないことをもって『化石燃料消費社会』に反対の姿勢を貫いてきた訳です。
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その40年間続けてきた信念と生き方を変える決心をしたのは、6月に父が亡くなったからです。
母自身も病気があって、バス・電車等の公共交通機関での移動は、母にとってかなり難しくなっていました。
父が亡くなった直後の病院にも、母は向かうことができませんでした。
そうしたことから
「遺された母をもっと外出させてあげたい」
「母と一緒に過ごす時間を増やしたい」
との想いがさらに強くなりました。
いろいろ考えた結果、自動車免許を取ろう、と決めました。
当面の第1目標は、半年後の祖父の三回忌(まさに今日のことです)に母をクルマで連れていってあげたい、というものでした。
こうして、自動車学校に通い始めることにしました。
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ただ、日本では20代で免許を取る人々が大半ですよね…。
認知能力も運動能力もかなり落ちた自覚のある四十代の僕が、果たしてちゃんと免許を取れるのか、心配でした。
相談にのってもらいに、3回も自動車学校へ足を運んでしまいました。
あるカフェトークの参加者の方が「親の介護の必要から、自分も四十代になって初めて免許を取った」というお話をしてくれました。それがとても僕の背中を押してくれました。
こうして父の葬儀が一段落ついた7月あたまに、ついに入校しました。
けれども仕事が忙しくて全く通えず、8月になってから週2〜3回のペースで久里浜に通いました。
政治家としてフルで仕事をしながら空き時間を作って、同時に教習所の予約が取れる空きタイミングを合致させるのは毎回すごく大変でした。
教習所では、僕が政治家フジノだと気づいてじかに話しかけてきた先生はおひとりだけで、あとの方々はみな僕がナイショにしているのを気遣ってくれたようでした。
教習所の先生方はみなさんが本当に丁寧で分かりやすい教え方で、ここでは自分が気に入った先生を『指名』できるシステムがあるのですが、僕は最後まで使いませんでした(使う必要が無かった)。
僕と同じように、四十代になってから免許を取ろうという人がこのブログを読んでいる方の中にもいるかもしれません。
ぜひチャレンジなさってください。僕は強くオススメいたします。
ほとんどの生徒たちが十代の中、僕が肩身の狭い想いをしているのを気遣って下さるのか、これから乗車する時や修了試験に向かう僕に「リラックスだよ!」と声をかけて下さる先生もおられました。
特にお二人の先生には、本当にいつもいつも廊下ですれ違う時などに励ましの声をかけていただきました。おかげで僕はすごく心強く感じたものです。
教習所の先生方も、僕らの世代が改めて新しいことにゼロからチャレンジすることをとても優しく見守って下さっているのを感じました。
だから、かつての僕のように免許取得を迷っておられる方がいらしたら、ぜひ挑戦してほしいと僕は願っています。
さて、現在クルマの免許を取ろうとすると、第1段階は学校内での模擬コースで教習、第2段階は実際の路上に出ての教習、という仕組みになっています。
僕は、教習はスムーズに進んでいったのですが...
第1段階の修了検定では、緊張の激しさからか教習では1度もしたことが無い『脱輪』というミスをしてしまいました。
いろいろなミスをしても修了試験は減点が多くならなければ合格できるのですが、『脱輪』というミスの場合はそこで即終了となります。
S字カーブとか
クランクとか
みんなが失敗する難しい課題で失敗するのではなく、ふつうの穏やかなカーブでの『脱輪』は信じられないミスでした。
教科書を読みなおしてみたり、コースを一望できるラウンジからイメージトレーニングをしてみたり努力をしたのですが、うまくいきません。
2回目の修了試験も別のカーブで『脱輪』をして、あっけなく落第してしまいました。
信じられない結果にさすがに先生にも相談に乗ってもらい、「ふだんの運転はしっかりしているのだから原因は『緊張』だろう」という結論になりました。
不合格になると、『補講』としてひとコマ教習を受けねばなりません。『補講』も『再受験』も追加で料金がかかります。
さらに修了検定の実施日が週2日しか無い為、補講を終えてもなかなか再受験の日が仕事と重なって受験ができなくてとても焦りました。
緊張をコントロールできない為に、お金も時間も奪われていくことに自分に強い怒りを感じたりもしました。
今振り返ると、この時期が僕にとって最大のピンチでした。
ようやく3回目の修了試験で無事に合格することができました。
本当に嬉しかったです。
けれども、再び大ピンチがやってきました。
『ぎっくり腰』です。
第2段階に入って路上を走りだした僕は、順調に進んでいました。
しかし、決算審査をしていた9月議会の最後半のある日、なんとぎっくり腰になってしまいました。
すぐにある整骨院に行ったのですが、全く効きませんでした。むしろ施術で骨をバキバキやられて、余計に具合いが悪くなってしまいました。
翌日の委員会には意地で出席したのですが、お昼になる頃にはあまりの体調の悪さに朦朧としてしまい、午後の委員会を早退せざるをえませんでした。
13年の議員生活の中で、初めての早退でした。
早退そのものにもひどく落ち込みましたが、「もう教習にも通えない...」とひどく落胆しました。
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けれども、捨てる神あれば拾う神あり、ですね。
先輩議員が素晴らしい整骨院を紹介して下さって、そちらに通院先を変えたらわずか1度の施術でひどかった痛みが少し消えたのです。
そこに毎日通院することで痛みが確実に和らいでいきました。
名医に出会えたおかげで、議会にも半日で復帰できて、運転の勘所も忘れないまま教習にも復帰することができました。
そして、第2段階ではひとコマも落第せずに、卒業検定を迎えました。
さらに、卒業検定も一発で合格することができました。
こうして、卒業後は二俣川にある神奈川県警察本部交通部運転免許本部へ行って、免許証を発行してもらいました。
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それから今日に至るまで4回レンタカーをして、毎回少しずつ走る距離を増やしていきました。
初回は市内一周、
2回目はお隣の三浦市へ、
3回目は藤沢市へ、
4回目は平塚市へ走る練習をしました。
そして今日の本番は、横須賀から平塚にある祖父の菩提寺まで無事に往復することができました。
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半年間を費やしての目標達成は、率直にうれしかったし、ホッとしました。
できればこれからは、母を1泊くらいの小さなドライブに連れていってあげられたらいいなあと願っています。
父が警察官として働いていた間、僕もどこか旅行に連れていってもらったことはありませんでした。
だから、父が定年退職したら、いろいろなところに旅行なんてできたらいいね、と両親が話すのを聴いていたものです。
それなのに父は、退職後わずか5年も経たずに倒れてしまいました。父はさぞかし無念だったろうと思います。
母も言葉にはしませんが、とてもさみしい気持ちになることがあるのではないかと思うのです。
大切な人を喪うという気持ちは僕自身が体験していますから、誰かが代わりになることは不可能です。それでもこれからは僕が少しでも父のかわりに、母をどこかに連れていってあげられたらいいなぁと思うのです。
その為にはもっと運転をうまくならなければ。もちろん無事故・無違反を継続しなければ。
がんばります。