江崎びす子さんがフジノの似顔絵を描いて下さいました/「メンヘラ展Special」の鑑賞へ

「メンヘラ展Special」を鑑賞しました!

今日は、東京・阿佐ヶ谷にある『TAV GALLERY』へ向かいました。

TAV GALLERYのウエブサイト

TAV GALLERYのウエブサイト


2月4日〜12日の9日間にわたって開催されている『メンヘラ展Special』を観る為です。

TAV GALLERYにて

TAV GALLERYにて


『メンヘラ展』は、昨年2014年に2度開催されました。

出展したのは、うつ病・摂食障がい・パニック障がい・境界性バーソナリティ障がいなどの精神疾患のある方々です。

2度の開催で、合計約1500人もの方々が来場したそうです。

『メンヘラ展』を、美術家・中ザワヒデキさんは著作の中でこう記しました。

「精神障害者の制作物を美術の側から『アウトサイダー・アート』として搾取する従来図式とは異なり、自傷やOD (過量服薬) や過食嘔吐といった1人だけの問題行動から自身が脱出し、世界 (他者) と繋がるきっかけとして『芸術』が位置づけられています」

と高く評価しています(『現代美術史日本篇 1945~2014』、アートダイバー刊、2014年)。

『現代美術史日本篇 1945~2014』、アートダイバー刊、2014年

『現代美術史日本篇 1945~2014』、アートダイバー刊、2014年


これを読んで以来、フジノは『メンヘラ展』にとても関心を持ちました。



「アウトサイダー・アート」ではない、「メンヘラ展」

フジノは、『アウトサイダー・アート(もしくはアール・ブリュット)』がキライなのです。

『アウトサイダー・アート』とは、知的障がいや精神障がいのある方々の絵画や彫刻や書道などを、必要以上にもてはやし、高い価格で売買するような動きのことです。

その存在を知った初めの頃こそ「できれば歓迎したいという気持ちを持ちたい」と思ったものの、はじめからこころの中にあった違和感がどんどん大きくなっていきました。

そこに『欺瞞性』を感じるからです。

人はみな、障がいがあろうが無かろうが、『そもそも表現せずにはいられない存在』です。

それなのに表現物を『障がいの有無』で分ける『商業主義』は、バカげていると感じます。

それに追随した『美術業界』の人々は「恥ずかしくないのだろうか」と思います。

精神障がいのある方々の多くが、デイケアに通ったり精神科病院に入院している間、絵を描かせられたり彫刻や粘土で作品を作らせられたり書道を書いたりします。

でも、それは本当にみんながやりたいことなのでしょうか?

それは、『リカバリー』に向けて何か意味がある行為なのでしょうか?

そうした作品が展示されると、大きな評価を受けるのですが、どういう意味で評価されているのでしょうか?

「障がいのある人達が障がいの無い人よりもうまい絵を描いている」

「障がいのある人でもこんな作品が作れるなんてすごい」

「色の使い方や作品の構図が独特なのは、やっぱり障がいがある人独特なのだろうか」

フジノは、そこには大きな差別・偏見・スティグマを感じます。『アール・ブリュット』とは、結局は、『差別・偏見・スティグマ』をオブラートで包んだだけのことだと今は受け止めています。

そんなフジノの考え方と、主催者の『あおいうに』さんの考え方は共通点があるのではないか、と感じます。

主催者のあおいうにさんの言葉から

私達の目的は、アートセラピーでも、メンヘラに安住することでもありません。

承認欲求を満たすためだけのものでもありません。

アートは社会との、鑑賞者との、作品との、自分との、コミュニケーションツールの1つです。

自分のメンタリティを全て曝け出さなければ、表現になりません。

アートを通して、メンヘラが世界と繋がる。ネットとリアルが繋がる。メンヘラのリアルを伝える。メンヘラと意識を共有する。

そんな展示にしたいと思っています。

さらに、今回はあえて『メンヘラ展Special』と銘打って開催した訳ですが、あおいうにさんは以下のコメントを出しています。

< 本展に向けて >

『メンヘラ展』とは、メンヘラ当事者が内面性を発露するアート展示会です。

インターネットにリストカットやオーバードーズや過食嘔吐や性的逸脱の報告など、自傷という生産性のない問題行動をとっている「メンヘラ」達。

それがアートを通して、健康で文化的な社会と繋がっていくという希望を持って活動しています。

お陰様で2度の『メンヘラ展』が1500人程度の来場者を記録し、大盛況にて終了しました。

この活動を続けていくことで、『メンヘラ展』という記号を使ってメンヘラのアートが一種のムーブメントとなり、メンヘラ達がより社会と繋がることが出来るようになること。

それが、『メンヘラ展』の大義なのです。

最終的には、『メンヘラ展』という概念そのものをブランド化することによって、美術史上にその名を刻むことが目的です。

私たちの活動や作品を後世にまで伝えていきたいのです。

今回は、メンヘラのバリエーションでみせる従来形式とは異なり、少数精鋭で、より表現として洗練された作品をお観せしたいという想いから、この展覧会を開くことになりました。

メンバーのキュレーションはあおいうにが執り行っています。

また、今回はスペシャルゲストとして『メンヘラチャン』の作者、江崎びす子様をお招きすることになりました。 スペシャルな『メンヘラ展』を、どうぞご高覧ください。

本展キュレーター・あおいうに

こうした考えに、フジノは深く賛同します。



エグい作品・リアルな作品をあえてフジノは飲み込みたい

フジノが理事を務めている『NPO法人地域精神保健福祉機構(通称コンボ)』毎月発行している『こころの元気+』でも、当事者によるマンガをかなりたくさん掲載しています。

「こころの元気+」最新号

「こころの元気+」最新号


でも、それは良い意味で『洗練された・消毒された・誰が読んでも不快に感じない作品ばかり』です。

何故なら『こころの元気+』は、あらゆる年代の全ての人々に読んでほしい雑誌だからです。

リカバリーに役立つ情報を発信するという最大の目的があるからです。だから、そうした作品が必要なのです。

けれども『メンヘラ展Special』に展示されている作品の数々は、人によっては強い不快感を抱くことでしょう。

首吊りの為のロープ、どぎつい言葉、暗い人間の闇。

強姦から自殺まで?

強姦から自殺まで?


『コンボの理事』としてではなく、『政治家フジノ』としてでもなく、『個人・藤野英明』としての僕は、『pixiv』に掲載されている数多くのメンヘラ的な作品をとても大切に感じています。

拒絶

拒絶


それがリアルだからです。

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毎日受けている相談の数々の中には、親がこどもをずっと性的虐待をしていたり、介護職だけでは食べていかれないのでダブルワークで風俗嬢をしていたり、ひとり親家庭で貧困にある親子ともに水商売をしているなど、日常的にあります。

すいすいスーサイド

すいすいスーサイド


精神科で処方されているクスリではいつまでたってもラクになれないので危険ドラッグに手を出したり、子育てに疲れて覚せい剤を使って逮捕されて今も赤ちゃんと離れて暮らしている母親や、リストカットもオーバードーズもやめられない人々がたくさんいます。

この叫びを、フジノはたくさんの相談の中で被害者の方々から聴いてきました

この叫びを、フジノはたくさんの相談の中で被害者の方々から聴いてきました


そんな現実と毎日出会っているフジノにとっては、『洗練された・消毒された・誰が読んでも不快に感じない作品』はリアリティがどうしても感じられないのです。



「メンヘラ展Special」にはリアリティがある作品の数々があるかわりに、引き釣りこまれてしまう人々は行くべきではありません

今回の作品展は、『観にいくべきでは無い人々』もたくさんいらっしゃいます。

メンヘラチャンとサブカルチャン?

メンヘラチャンとサブカルチャン?


作品の世界観に引き寄せられてしまう人々や引き釣りこまれてしまう人々は、行くべきではありません。

メンヘラチャン

メンヘラチャン


フジノが行った今日は、会場に来ていた人々の多くが十代で、女性が多く、中にはゴシックorゴスロリのファッションの方々がいらっしゃいました。

こうした方々が最も今回の作品展に親和性が高いのかもしれません。

「ふだん、『Pixiv』などで作品を読んでおられるのもこうした方々なのかな?」と考えたりしながら、フジノは作品とその鑑賞者の両方を眺めていました。

本当のアート作品には、人の魂を揺さぶる力があります。

どうか「行ってみたい」と思っているあなたは、ご自分が作品に飲み込まれてしまわないか、あらかじめ自問自答してから「行くべきか否か」を判断して下さいね。



以前からお会いしたかった江崎びす子さんと無事にお会い出来ました

スペシャルゲストとして江崎びす子さんが2日間、来場されています。

江崎さんは、『リスカ変身サブカル✡メンヘラ』の作者です。主人公のメンヘラチャンがリスカによって変身し、敵と闘うというストーリーです。

メンヘラチャン?

メンヘラチャン?


フジノの目的のもう1つは、江崎さんにお会いすることでした。

メンヘラチャン、リスカの数々

メンヘラチャン、リスカの数々


ふだんはインターネット上で連載されているのですが、メンヘラ展では単行本が発売されるというので楽しみにしていました。

(*実は売り切れになってしまい、明日再入荷するそうでした。でも、フジノがパニック障がい持ちでなかなか阿佐ヶ谷には来られないので、見本として残っていたラスト1冊を打って下さいました。びす子さん、感謝!)

江崎びす子さんとフジノ

江崎びす子さんとフジノ


無事にお会いすることができて、色紙にサインとフジノ自身の似顔絵も描いて頂きました。ありがたいです。

人が生きていくということは、とても難しい時代・社会になりました。

でも、それでも『希望』はあるとフジノは信じています。

それは、ドロドロでどうしようも無い『現実』と『絶望』の中から「それでも」「あえて」生まれてくるのだとフジノは信じています。

「それでも」

「あえて」

ニーチェの著作と出会う前から、フジノはずっとそう信じてきましたし、今も固く信じています。

『メンヘラ展Special』、オススメです。

全ての人々にオススメはできませんが、行くべき人はぜひ足を運んで下さいね!

消毒された美術品が置かれている美術館には無い、『リアル』がそこにはありますから。



そもそも「アディクション」とは何か?/「第1回横浜アディクションセミナー」へ(その2)

前の記事から続いています)

そもそもアディクションとは何か?

『アディクション』とは日本語で言うと、『依存症』のことです。

『依存症』は、精神疾患です。

世界的に使われている医学・精神医学の診断基準マニュアル(WHOのICD-10、アメリカ精神医学会のDSM-Ⅳ-TR)にも記されてます。

アディクションには、アルコール・薬物・ニコチン・ギャンブルをはじめ、仕事・ショッピング・摂食障害・恋愛・セックス・共依存、などがあります。

「アルコールは分かるけど、仕事とか恋愛まで依存症なの?」

って思う人もいるかもしれません。

多くの場合、『依存症』のもとになる対象は、適切な量や状況ならば害の無いものです。

それが、自分ではもうコントロールできない状態になってしまう。
 
害があるのに止められない状況になってしまう。
 
特に、自分ではその悪化が自覚できない。分からない。
 
これが依存症です。

人には程度の違いはありますが、誰しも依存しているものがあります。

例えば、イライラするといつも甘いものを食べてしまう人、いますよね?
 
あるいは、仕事から帰ってきて毎晩必ずビールを飲まずにいられない。
 
あるいは、いくら親に叱られてもニンテンドーDSをやめられない。

人には、ハマってしまったらなかなか抜け出せないものがたくさん存在しているのです。

そんな中でも、社会的に受け容れられている場合には明らかにアディクションっぽくても精神疾患だとは言われません。

例えば、イチローや松井は明らかに『野球という仕事』へのアディクションに見えますが、彼らを精神疾患と診断する人はいません。

そのはまりまくっている何かが『社会的に受け容れられない、周囲の人々を苦しめる、自分のこころや体を破滅してしまう』、こうした場合にアディクションになるのですね。

医学的に見れば診断基準もありますし、明らかに『病気』の扱いになっています。

人間ならば誰もが『依存症』になるものですから、『アディクション』のある人々を差別・偏見・スティグマに追い込むことは絶対にあってはならないとフジノは信じています。



政治家フジノにとって、アディクション対策の意味

政治家フジノにとって『アディクション対策』に関わることは、大きな意味があります。

「自殺予防の総合対策をすすめる」という『大目標』の実現には、「多重債務対策をすすめる」などの何十もの『中目標』を実現しなければいけません。

この『中目標』を実現する為には、ギャンブル依存症、薬物依存症、セックス依存症、などへの対策という何百もの『小目標』を実現していかなければならないのです。

けれども『小目標』とは言っても、小さな問題どころか大々問題です。

本来ならば『アディクション対策』は、それだけで一生をかけるテーマになります。

だから『小目標』なんて言ったら本当はおこがましいことは理解しています。

それでもあえて「この国から自殺を無くす」という視点に立つならば、並行して全力で取り組まなければならない事柄の1つです。

そして、片時も忘れてはならない何よりも大切なことは、自殺も、多重債務も、依存症も、共通の大きな根っこがあることです。

それは『孤独』です。

説明が長くなりすぎるのでここでは書けませんが、政治家フジノが生涯をかけて取り組むべきあらゆる問題の根っこには全て共通して、『孤独』の存在があります。

孤独は人を死に追いこむ、借金漬けに追いこむ、破滅するのが分かっていてもギャンブルをやめられない...。

こうしたことの根っこにある『孤独』と政治は、あるいはフジノの武器である精神保健福祉は、どこまで立ち向かえるかが勝負だと考えています。

この世界から孤独を無くすことはできないし、全ての孤独が害ではありません。

けれども、人が孤独によって心身をむしばまれていき、生活が破壊されていく時、それは社会政策の対象なのだと僕は考えます。

(次の記事に続きます)