祖母の三十三回忌へ

200日ぶりに平塚へ

今日は、祖父の暮らしている平塚へ向かいました。

昨年8月末に祖父宅を訪れた僕は、帰りの電車の中で体調を崩してしまいました。隣の茅ヶ崎駅で、救急車で運ばれました。

これが原因で、パニック障がいもちのフジノの脳の回路には『平塚には行かれない』というラインが深く刻まれてしまいました。

それ以来、今日まで約200日。

何度も何度もJRに乗って平塚に向かおうと努力したのですが、パニック発作が起きてしまい、行かれず…。

最長でも辻堂駅止まりだったのです。

パニック障がいが持病のフジノには毎回命がけです

パニック障がいが持病のフジノには毎回命がけです


おじいちゃん子の僕は、多い時には2週に1回は祖父に会いに通っていました。

だから、この200日はあまりにも長い空白期間でした。

95才という祖父の年齢を考えるとたくさん会いたいのに、焦れば焦るほどにパニック発作が出て、とてもつらかったです。

今日は、祖母の三十三回忌。

どうしても法事に参加したかったですし、どうしても祖父に会いたいと願っていました。

それなのに、けさに限って、いつも持ち歩いている頓服薬を自宅に忘れたことに気づいて、JR横須賀駅の段階ですでにダウン寸前。

顔面蒼白でドキドキしながら電車が来るのを待っていました。

すると、ものすごく久しぶりに、PSWとして働いている後輩と偶然再会しました。

そして、彼女と会話をしながら辻堂駅まで向かいました。

その後も、平塚駅までひとりで何とか到着することができました。

神様にとても感謝しました。

…いや、仏様かな?

祖母の三十三回忌

祖母が亡くなったのは、まだ僕が幼稚園の時でした。

早朝に連絡を受けて、急いで向かった病院で、祖母はすでに昏睡状態でした。

時々まぶたが開くことがありました。

親戚はみんな、祖母が目をあけた瞬間を見ることができたそうです。

けれどもいくら目を凝らして待っていても、おばあちゃんは僕には目をあけてくれませんでした。

親戚のひとりが「おばあちゃんは目をあけても見えてはいない、たまたままぶたが開くだけなのだ」と言ってくれたのですが、それも含めてとても悲しかったのを憶えています。

晴天に恵まれました

三十三回忌は、晴天に恵まれました


祖母は54才で亡くなりました。

まだとても若くて、白髪がほとんど無かったのも憶えています。

おばあちゃんのことは、ほとんど憶えていません。

幼い頃の僕の誕生日(たぶん3〜4才)のお昼のこと。

当時住んでいたアパートに、祖母が会いに来てくれていました。

台所のテーブルには、箱に入った僕の誕生日ケーキが置いてあります。夜になったら僕はそれを食べるのをとにかく心待ちにしていました。

すると、姉と姉の友達が遊びに来ました。

おばあちゃんは、なんとその2人の為に「ケーキを切ってあげよう」と言い出しました。

ろうそくもつけていない僕の誕生日を祝う為のケーキが、姉と姉の友達の為にカットされて提供されてしまうことに、僕は強く抗議しました。

なんといってもそれは『僕の為のケーキ』なのです。1年に1度だけのお祝いなのです。

そんな僕を祖母はピシャリと叱りました。

泣き喚く僕をベランダに連れて行って、外に出すと鍵を締めてしまいました。

ひたすら泣き喚いて、姉と姉の友達が僕の為の誕生日ケーキを食べることを非難し続けたのでした。

僕にとって、祖母と言えば最初に思い出す記憶がこれです。

親族が久しぶりに集まりました

親族が久しぶりに集まりました


実際の祖母は、母の話によれば、高熱が出た僕を必死におぶって病院まで走っていってくれたり、とても優しかった人だそうです。

物ごころがついてから祖母とお話ししてみたかったです。

三十三回忌は、親戚がみんなで集まって、気持ちの良い春の空のもとで無事に終わりました。

95才になった祖父

祖父は、お寺には来られなかったのですが、とても元気そうでした。

一緒にお昼ごはんを食べたのですが、食欲もばっちりでした。

おじいちゃん、食欲もばっちり。

おじいちゃん、食欲もばっちり。


95才になったおじいちゃん。

素晴らしいです。

祖父と父の存在が僕にはいつもこころの支えになっています。

ふたりの生きる姿に、いつも学ばせてもらっています。

おじいちゃんと

おじいちゃんと


おじいちゃん、どうかずっと長生きしてね!

予算議会が終わったら、必ず近いうちにまた来ますね。

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